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本論で考察した内容を次のように纏め、夏目漱石による日露戦争に対する態度を、導出してみることにする。1904年の2月に開戦し1905年の9月に終結した日露戦争は、その緒戦である海軍による<第2回旅順口閉塞作戦>(3月27日)においてかの著名なる軍神広瀬武夫中佐を生みだしているが、この戦争に対する表象として、<肉弾戦>という言葉があるように、特にその惨害は陸戦において膨大であった。それは例えば、日露戦争の主要会戦と言える、<遼陽会戦>(1904年8月28日~9月8日)では死者5,359名負傷者17,404名、<沙河会戦>(10月8日~10月18日)では死者3,179名負傷者14,861名、第1次から3次に亘る<旅順総攻撃>(1904年8月19日~1905年1月1日)では死者11,602名負傷者18,032名、<黒溝台会戦>(1月26日~1月29日)では死者1,859名負傷者7,267、<奉天会戦>(3月1日~3月10日)では死者15,683名負傷者51,247名という凄惨たるものであり、「世界で最初の大消耗戦」として後世に記されている。また、こうした悲惨な情況は、「即死を見るに敵も見方と共角力を取りたる如く組合にしては死して候」「防御陣地を占領するときには、味方死体敵の死[体]を越えて突撃したる」「あはれ幾百の壮長血に染まりて、その屍累々たるを目撃致し候」等々、参戦した陸軍の兵士たちの記録にも残されている。このような日露戦争と関連して、夏目漱石は新体詩『従軍行』を1905年5月に、小説『趣味の遺伝』を1906年1月に『帝国文学』に発表している。『従軍行』は日露戦争の初期に主戦の国民感情を鼓舞する征露の新体詩が流行する中で、殊にそうした熱狂を高揚させた<第2回旅順口閉塞作戦>の直後創作された作品である。しかし、この詩は他の戦争詩とは位相を異にし、戦争を容認しつつも、戦争の死に対する懐疑や戦死の不安が表象されるなどの微弱な厭戦性を帯びた、いわゆる2元性を包含する作品であった。一方、『趣味の遺伝』では戦場における死のモチーフが<余>による/日露戦争の詩想/亡友浩さんが戦死した1904年11月26日の<第3回旅順総攻撃>の想像/その戦場において戦死を目の前にする浩さんの至極に悲痛な心情が綴られた軍隊手帳の挿入/を通じて非常に強く描かれ、さらには、深く神秘的な愛の想いが戦争に引き裂かれるというもモチーフや戦争遺族の悲哀に向けられた仁愛の戦争表象を示す作品でもあった。しかしながら、『趣味の遺伝』においても、死と表裏一体の兵士の惨状を崇高なものと見たり、戦争によってもたらされた不幸な現実を容許するかのような遺族の姿が提示されるなど、戦争容認の要素を一部内在する側面も認められた。このような意味において『趣味の遺伝』もやはり2元性を包含する作品であった。また、『趣味の遺伝』は、非戦主義や反戦的な文学への弾圧や統制の厳しい戦時中ではなく、そうした抑圧がある程度緩和された戦後の時期に創作され発表された作品であった。しかしながら、戦時中においても女流歌人⋅女流作家による厭戦詩『君死にたもう勿れ』(与謝野晶子、1904年9月)『お百度詣で』(1905年1月)などが発表されており、また『平民新聞』は早い時期から国民の福利のために戦争の禁絶を訴え続け、『亂調激韻』(中里介山、1904年8月)などの反戦詩を発表し、戦時中既に戦争の犠牲となった戦場の兵士や庶民の惨状に目を向けていた。結論として、漱石による日露戦争に対する態度というものは、常に厭戦性と戦争容認性の2元性を包含し、厭戦的な側面が長けていると言えるものの、その厭戦性を真っ向から表現しようという姿勢に欠け、強いものではなかったということが論定されるのである。


Russo-Japanese War (February 1904 - September 1905) caused casualty of over 200,000 people in Japan and enormous damages to over 120,000 families of the victims. This war was the world`s first war of attrition focusing on hand-to-hand combat. In addition, the tragic consequences were recorded substantially by the army soldiers who fought. Natsume Soseki (1867 - 1916) is a writer who became a literary giant for his major works of middle and later period of modern literature. However, in the early period, he left a new style poem 『Jyoogunkou』(『Teikokubungaku』, May 1905) and a novel 『shyuminoiden』(『Teikokubungaku』, January 1906) based on the Russo- Japanese War. This text explores these two works and proves the literary circles and social circumstances related to the Russo-Japanese War. Through this approach, the unique attitude of Soseki toward this war is examined in detail. In conclusion, the attitude of Soseki toward the Russo-Japanese War always includes the following two components: Weariness of war and approval of war. The former is expressed relatively stronger. However, since his attempt to clearly express his weariness of war is lacking, his attitude toward that spirit doesn`t seem to be quite strong.