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漱石や鴎外のヨーロッパ体験は、日本の近代文学を語る重要なキーワードの一つであろう。なぜかと言えば、近代文学史そのものが西洋からの移植という否定せざる負の意識を孕んでいるからである。それはある面においては、オリエンタリズムに繋がる一方、負の意識の作動で西洋を相対化できるような文学者を求める。その対象が漱石や鴎外ではなかっただろうか。ところが二人の神話は西洋に移動、交流する男性的世界観に支えられている、というのが本論の出発点である。もともと移動、交流による非西洋の発見ということを、近代の始まりだとすると、女性の出る幕はなかった。しかし、漱石や鴎外が経験したヨーロッパ帝国、すなわち英国帝国、独逸帝国とちなんで宮本百合子のアメリカ「帝国」やソビエト「帝国」、ヨーロッパ帝国の滞在を重ね読むとどうであろうか。漱石の帝国として成長していくべき「日本」への強い思いとは違って、百合子が捉える西洋には「国家/帝国」意識が見られない。百合子文学が個人の自由への熱い思いから出発したからであろう。漱石と同じ英国を見回る百合子の語り手は、先進国としての羨望はなく、その矛盾への批判が現れている。共産主義の帝国化を図るとソビエトに対する無批判的な肯定に問題は残るにせよ、女性の視点で読まれた西洋言説は日本の近代の別な断面として考えるべきである。