초록 close

本槁はポストモダニズムの觀點から芥川龍之介の『支那游記』を考察してみた。二十世紀後半からの文化硏究の動向は他者〮〮〮または周邊に對して關心がそそがれている。その代表的な著書がエドワド 〮サイドの『オリエンタリズム』であり、サイドはこの本の中で帝國主義の言說と視線を綿密に分析している。それは强者の一方的な言說であり雙方の合意した談論ではないと主張している。 このような脈絡から見ると『支那游記』には芥川の一方的なまなざしで中國という他者が描寫されているといえる。芥川が把握した中國のイメージは不潔, 懶怠, 腐敗, 疾病として點綴している。これは中國の本質ではない。したがって『支那游記』には日本人インテリゲンチャーの優越主意と偏見が無意識的にあらわれているといえる。これは西洋人が東洋を描寫する方法であるオリエンタリズムと通じるところがある。故に本硏究はサイドのオリエンタリズムを適用して『支那游記』を批判的に分析してみた。 芥川は自分が屬している時代の中に埋沒され、自國日本を相對化する視座が得られなかったと思われる。また彼が追究した藝術至上主義の理念も時代認識を薄弱にさせた一原因だと思う。それゆえ『支那游記』の到るところに知らず知らず帝國主義的な視線が露呈されているのがわかる。これは大正期知識人である芥川龍之介の限界だと把握してみた。