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もし、在日朝鮮人文学の原点を敗戦以後の在日一世作家金達寿とした ら、その歴史も半世紀あまり経っている。この半世紀の間に在日朝鮮人文 学は異質的な文化を持っている日本の中で自分の「民族性」と「在日性」を生かし守りながら世人の脚光を浴びる成果を収めてきた。今でも日本文壇で権威を持っている芥川賞の受賞者だけを取り上げて見ても、李恢成(一九七二年受賞)、李良枝(一九八八年受賞)、柳美里(一九九七年受賞)、玄月(一九九九年受賞)などがいる。しかも、この受賞者以外にも、金達寿、金石範、金泰生、金鶴泳、梁石日、鄭承博、高史明、金蒼生、元秀一など、日本の作家に比べて少しも遜色のない優秀な作家らが続々輩出されてきた。 今までの在日朝鮮人文学に関する論文を調べてみると、在日朝鮮人文学 の民族性を論じた論文が最も多かった。在日朝鮮人文学を論じたあらゆる論文に多かれ少なかれ民族性の問題が必ず出てくるのはなぜなのだろうか。それは在日朝鮮人文学が民族性と切り離しては存在できないからである。民族性は在日朝鮮人文学の生命であり、その存在の理由、根拠でもある。この理由、根拠が失われれば在日朝鮮人文学の全体が崩れてしまうのは言うまでもない。在日朝鮮人文学とは在日朝鮮人が書いたものだから在日朝鮮人文学になるのではなく、在日朝鮮人文学を書いたものだからこそ在日朝鮮人文学になるのだ。つまり、かりに在日朝鮮人が書いたものだとしてもそこに民族性がまったくないなら在日朝鮮人文学とは言い切れないのである。これは在日朝鮮人文学の研究者らが民族性問題に焦点を合わせる理由であり、今日私が再びその問題にふれる理由でもある。 本論文では今までの先行研究に欠かれ、足りないと思われるものを補完 することを目的として通史的、巨視的な眼目で在日朝鮮人文学の民族性と在日性の所在、変容、行方を調べ、在日朝鮮人文学の存在理由とその可能性を深く把握しようとする。