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翻訳でテクストの変容はつきものである。それにも関わらず、文学の翻訳が行われるのは異文化の他者性を理解しようとする文学の試みである。金東仁の韓国語小説であるじゃがいもが日本語の翻訳で甘藷(さつまいも)に変り、さつまいもという新たなテクストを創出した。韓国人読者が考えるじゃがいもは韓国の北国である「じゃがいも」と関わる物語である。生きていくために堕落する福女の一生は「じゃがいも」と離しては話にならないほど重要な意味を持っている。じゃがいものよく育つ地域としては涼しい地域である北の地方である平壤がうってつけである。そして、原文テクストにおいて抜くことのできないのが平安道の方言である。この方言のために、登場人物のキャラクタが浮彫りになり、会話だけで地域性と階級を分かることができた。しかし、翻訳テクストを読んだ読者は題名をさつまいもとして認識し、南地域にある「さつまいも」と関わった福女の物語として考えるだろう。従って、平安道地域の方言は考えられない。このように翻訳テクストはじゃがいもをさつまいもとして翻訳することによって暖かい南地域に生きているさつまいもを巡った福女の物語という新たな物語を生産した。ただし、じゃがいもをさつまいもに変えることで、主食が変り、地域が変り、方言が消えるのである。画期的なテクストの変容である。 各々の言語は各々違う特徴を持っており、その表現は長い文化の伝統の中で根をおろしている。違う言語でそれを完全に翻訳するのは不可能である。従って、翻訳が透明なガラスのように、他の言語で変えられるという考えは、幻想であり、完全なテクストの移植は可能なものではない。このようにあまりにも違うテクストの変容のため、翻訳が必要でないと語るものもあるだろう。しかし、文学的な変容を考え、翻訳テクストを読まないと、優れた外国文学を接することが出来ず、自国の文化だけを知るという結果をもたらすことになる。それは文学や文化の多様性を排除し、世界化に逆行することになる。翻訳は文学の世界化を考えるなら、必然的なものであるだろう。