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現在までの先行硏究によれば兪鎭午に對する評価は明確ではなく、結論が出ていない。兪鎭午の親日遍歷に關する唯一の先行論文は林鍾國の『親日文學論』であるが、親日遍歷に關する資料を中心に揭載しているだけで、結論を下していない。そこで本文では兪鎭午の1941年以降の文筆活動について考察し、彼の親日行動と信念に對する理解を試みることとした。 分析したのは、兪鎭午の座談會での發言、書評、小說、論說文などである。彼の小說は、古風なものと近代的なもの、東洋的なものと西洋的なものを對照させ、東洋の美を際立たせる手法で書かれたものが多い。そのような兪鎭午の考え方は、日帝が<大東亞戰爭>を引き起こしたときに、その戰爭を東洋對西洋の戰爭と位置付け、日帝のアジア侵略という側面を輕視する過誤を犯すに至る。兪鎭午は、世界を導く<東亞新秩序>の中心理念は<東洋的道義精神> であるとし、<東洋的道義精神>を皇道主義の上に位置するより包括的な指導理念と見ていた。 そしてこの戰爭に朝鮮人が參戰することによって、朝鮮に對する日本の差別問題を解決し朝鮮の位相を高めるために、彼は朝鮮人の兵役義務遂行に贊成していた。このあたりは、日本という支配者を現實的な觀点から認めた兪鎭午の限界と言えるだろう。 戰後、解放された韓國においても彼は、太平洋戰爭に負けたことに割りきれない思いを持っており、その責任を日本の計畵性の欠如と無責任さに負わせている。彼は東洋主義者であり、朝鮮人として朝鮮の美を作品で追求はするが、國家的には日本と共に大東亞共榮圈を作るという考えに反對していなかった。