ABSTRACT
能「班女」の三島由起夫による近代戯曲化について考察してみた。女主人公である花子の情念の具現にあたって、能と戯曲の中の男女主人公の再会の意味を中心に、能楽という日本の古典伝統芸能がその演技の方式にもすでに兼備している徹底的な否定ないし超越の性格を三島は戯曲化の方法として利用したという観点から考察した。まず、二つの作品から見える再会の意義を有用性と無用性にわけて考えてみた。能の場合、恋人に対する愛情を詩的言語の重疊を通じて精製して行くことで情念を単純な待つことから愛情という情念の達成にいたることにしたとしたら、三島の戱曲の場合は、花子の内面の戀人の生成によって彼女の愛情は内面の中で精製され、その結果、狂氣の宝石として結晶化していくことにした。このように極度に精製された情念はその対象まで超越してしまって、自分の愛情の相手さえ見分けられない状態として描かれてあるのだが、これが再会の無用性である。一方、女主人公花子の内面の假想の恋人という対話の相手と共に新しい人物の設定による戱曲化の手法も見られるが、花子とはまったく反対の性格の人物である実子の設定がそれである。作品の中で描かれている花子の待つという行動は愛情の対象さえ超越した高度に精製された純粋なものである。だから三島の戯曲「班女」の愛情のシンボルである扇は現実で捨てられたシンボルではなく、現実の失戀を克復するための扇としての小品の意味で使用されている。現実で捨てられたことを象徴することで実際の愛情を越えた逆転を象徴することができるのだが、このような逆説の構図は三島文学の中でよく登場するモチーフの一つである。なにか安定的で不動のものとして思われていた花子の男主人公の吉雄に対する愛情を否定することに逆転させ、むしろ花子の愛情に超越と言う情念の精製を試みている。要するに三島は能と言う芸能の持っていた超越と言う概念を通じて描かれる情念を戯曲化する過程で自分の文学のモチーフを使って情念を結晶化することで情念の無限再生産の世界を見せようとしたのである。
KEYWORD
nougaku, hanzo, paradox, irony, dramatization
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